被害者になりたがる弱者の一撃が一番深手を負う

人生は長い。

長い人生の中で傷ついてきた人はたくさんいるだろう。

傷ついてきた人は強い。

しかし、傷つき続けている人はとても弱い。

とても弱いというのはとても問題である。

とても弱いと人は攻撃的になる。虚勢を張る。空想に耽る。弱さの補填を他者に求める。

とにもかくにも弱いということはそれだけ、他者から受ける影響の度合いが人よりも強く、依存的で攻撃的で自己中心的で主観的なのである。

弱さというのはこれまた奇妙なもので、強さを凌駕することもある。

弱いという事は何もないということでもあり、弱いいうことは保護されるべき対象でもあるということだ。

いや、広義的に、広い視野に立って物事を判断するならば、「保護されるべき=弱い」ではないのだが、とかく弱い人は「弱いこと=保護されるべき」だという権利を主張する。

弱さというのは、ある種居心地の良いものである。

赤ん坊は弱い存在である。故に親から世話をされる。

弱いという事は助けてもらえる権利、誰かに引き上げてもらえる権利を有しているという勘違いが生まれる。

そして、弱い人はとかく自分が弱いことを知っていて、その弱さに居心地の良さを感じているので、「自分は弱い。よって、弱い自分は誰かにいじめられている。」という妄想に耽ってしまう。

誰かの何気ない一言に勝手に傷つき、勝手におびえ、勝手に怒りだす。

そして、「弱い私は傷つけられた。なので、傷つけ返す権利を有する。」とこれまた勝手に言葉の暴力を浴びせたり、裏で悪口を言ったり、相手の足を引っ張ったりする。

最弱は最強である。

最弱に最強は勝てない。最弱に勝てるのは無慈悲だけである。

最弱は最強だという事を、世の中の弱い人たちは熟知している。しかし、弱者として生きることが幸せでないということに気付ける人はなかなか少ない。

弱者の人生はとかく自分の感情や幸福の主導権を常に誰かに与えてしまっている。

故に、「誰かに何かをされた」、「誰かに何かを言われた」ということで本人の感情は振り回され、幸福度も変化する。

このように感情や幸福を周りからの影響によって変化させている弱者は、何かされたしてもらった言われた言ってくれたで右往左往し、そんな自分に疲弊する。

そして急激な自己嫌悪に陥ったかと思えば、突如牙をむいてくる。

自分が勝手に捉え、勝手に解釈したもので、勝手に不幸になって、勝手に悲しみ、勝手に怒る。

人生を主体的に生き、弱者に翻弄されないためには、他者基準のものの見方になってはならない。

弱者は強者が疎ましく、目障りで、羨ましく、相手にして欲しいのだ。

そのため、弱いものは弱いものとして強者にすり寄り、反応を窺う。望ましくない反応が返ってきたときは自らを被害者に仕立て上げ、大声で喚き、強者を悪者に仕立て上げる。

強者が弱者に勝てることは絶対にない。

大声の被害報告はかなりのネガティブを孕んでいる。ネガティブな情報は拡散されやすく、一度植え付けられたネガティブな情報は、例えそれが間違いだったとしてもなかなか拭い去ることは出来ない。

強者は弱者から身を守らねばならない。そのために出来る一番の方法は、「弱者を無視する」ことだ。

因みに、一般的な社会的弱者を言っているわけではない。このような言い訳みたいな文章をわざわざ書くのは嫌なのだが、誤解は弱者を無駄に集めてしまう。

弱者とは、自分の人生や感情を他者に渡してしまっている人を指す。