意気揚々は時に破滅を招く
とても久々にブログなるものを執筆する。
巷ではブログはお金儲けになるようで、インターネット上には畏まったものが溢れているが、このブログはそういった類のものではない。
自分の人生を客観的に見つめ、時に自分自身で俯瞰するために今現状を記しているだけに過ぎない。
無論、この場所をお金を生む職場と捉えているわけではない。
日々、意識して過ごしていく中で、自分の気持ちを言語化しておくというのが物凄く大切であることに気付いてきた。
夢想家な私はつい、白昼夢を見てしまい、その白昼夢がついつい、自分にとってネガティブなものへ変容していくのだが、それの正体は実のところつまり、「メタ認知能力の不足」から起こることである。
自分の現状を客観的に見つめ、それを冷静に評価できないとき、人は自分の心の中でネガティブを想像していく。
ネガティブの中で自分の中の欲求不満や見えない不安を無理やりに具現化させ、怒りや悲しみに耽るのである。
私は夢想家だ。
夢想家は創造性に優れるというが、その反面今を生きれないという足かせを付けている。結局のところ人間の幸せは、今の連続を充実して過ごしているものにしか訪れない。
自分で作り上げた空想の世界で、楽しんだり、気持ちよくなったり、苦しんだり、怒ったり、悲しんだりしているうちは、自分の人生を生きているとはいえないのである。
自分で作りだした自分だけの世界で、人は生きることも死ぬことも、天国に昇ることも、地獄に堕ちることも出来る。
そしてそのどれもが、「空蝉の幸福」からはかけ離れたものなのだ。
人が幸せに生きる上で何よりも大切な能力は「客観的な視点を持つこと」なのではないかと常々感じるようになった。
「客観的な視点」はしばしば、誰かからの目線と誤解されることもあるが、そうではなく、自分を自分自身で見つめなおす能力である。
何か悲しいことや傷つくことがあった場合、人は主観的に物事を解釈してしまう。
「〇〇されたから腹が立った」「相手が〇〇だから悲しかった」という風に思うことは日常的によく起こりえる。
しかし、この主体的なものの見方は非常に危険で、これを逆説的に読んでみると「相手から〇〇されなければ幸せである」「相手が〇〇でなければ平和だ」という事になってしまう。これは幸せの決定権を自分ではない他の誰かに依存していることとなる。
客観的な視点は「〇〇されて腹が立った自分は、なぜ腹が立ったのだろうか」という疑問を抱かせる。この自分の感情に対して疑問を抱くことで、自分の感情の源を意識し、心を静めていけるのだ。
「幸福」という状況を、人はしばしば「自分の欲求が満たされたとき」や「自分の感情がポジティブな方向になったとき」と考え、それを追い求める。そして社会はそれを追い求めさせようとする。
しかし、「自分の欲求を満たすこと」や「自分の感情がポジティブであり続けること」を幸福と捉えている場合は幸福になれることは一生ない。
いや、刹那的に「満足感」を感じることはあるだろう。しかし、それは単純に満足をしただけに過ぎず、幸せであるとは言えない。
では、幸せとは何でどのような状態が幸せなのかというと、「今ここにある」ということを認識できることだ。
今ここに自分がいる。
今ここに自分がある。
それをポジティブでもなくネガティブでもなく俯瞰できたとき、本当の意味で自分の存在を自分で認められるのだ。
自分の存在を自分が認めた時、自分の存在を自分で証明出来る。
そこには波風も雑音もなく、静かな自分だけが残るのだ。
誰かは誰も幸せにしない。
静かなる自分の俯瞰が、幸福となる。