野良猫に餌あげる人は猫なんか愛してない

うちの近所はわりと良識的な人が住んでいるのだが、たまに変な人がいる。

私の知っている限りでは2人ほど変人がいる。

一人は過度にコミュニケーションを取りたがるおばさん。

まぁ、挨拶がてらに二言三言一方的に話しかけてくるくらいなので、距離感が少しばぐってるなくらいで実害はない。

正直、私は得意ではないし、放っておいて欲しいなと思っても一生懸命話しかけてくるのはやっかいではあるのだが、見方を変えれば気さくなおばさんでいい人と見ることは可能だ。

しかし、もう一人の夜な夜な野良猫に餌を上げているおばさんは本当にやめて欲しい。

うちの近所は本当に野良猫が多い。

それは無責任な人たちが無責任なやり方で見せかけの保護をしているからだ。

因みに、私は猫という生き物が好きだ。

大好きだ。

今までの人生で猫という存在が身近にいなかったことの方が少ない。

生まれた時には我が家には既に二匹の猫がいたし、その猫が20年ちう長寿を全うしたと思ったら、三か月後に庭先に同じような柄の猫が遊びに来るようになり、今度はその猫を飼うことになり、といった感じで実に猫とは長い時間を共に過ごしてきた。

良い遊び相手になってくれたり、愛情を示してくれたり、たくさんコミュニケーションが取れる人間のパートナーとも言える素晴らしい動物だ。

私も将来的に、飼いたい気持ちが強いのも事実だ。

しかし、だから故に、野良猫に餌をあげるのはどう考えてもおかしいと思わざるを得ない。

もし、その猫に心の底から思い入れがあり、本当に愛しているのなら、餌だけ与えて後は放置させるなんてことはしないはずだ。

野良猫同士の喧嘩や交通事故、性感染症など野良猫には様々な危険が付きまとう。

その危険な状況に身を置かせながら、むしろ餌の確保により野良猫の頭数の増加やそれに伴い縄張りや感染症のリスクの増加などを考慮せず、餌だけを与えて飼っている気になっているのは無責任極まりない。

たまにアパートがペット禁止で仕方なくという人もいるが、ぶっちゃけそんなこと知ったことではない。

むしろペットを飼いたいのであればペット可の物件に引っ越せばいいだけである。

または、そこまで猫がかわいそうだと思うのであれば猫を保護する団体を立ち上げるなり、それが出来ないなら出来ないで、里親を募集するなり、そのような猫を保護する団体に預けるなりすればよいと思うのだが。

ペット可の物件は確かに一般的な物件に比べて割高であることが多く、お金がなくて引っ越せないという人もいるだろう。

だからと言って野良猫に餌をあげていいことにはならないのである。

そして、そのようなペット可の物件に住めないのであれば、今のあなたには猫と共に生活をするのが身に合わないということだ。

なので、何かを守りたいのであれば社会的にある程度の立場になる努力をしなければならない。

 

まぁ、こんな文章に意味はないだろう。

 

野良猫に餌を上げる人は野良猫に餌を上げる人を否定する文章は決して読まないだろうから。

被害者になりたがる弱者の一撃が一番深手を負う

人生は長い。

長い人生の中で傷ついてきた人はたくさんいるだろう。

傷ついてきた人は強い。

しかし、傷つき続けている人はとても弱い。

とても弱いというのはとても問題である。

とても弱いと人は攻撃的になる。虚勢を張る。空想に耽る。弱さの補填を他者に求める。

とにもかくにも弱いということはそれだけ、他者から受ける影響の度合いが人よりも強く、依存的で攻撃的で自己中心的で主観的なのである。

弱さというのはこれまた奇妙なもので、強さを凌駕することもある。

弱いという事は何もないということでもあり、弱いいうことは保護されるべき対象でもあるということだ。

いや、広義的に、広い視野に立って物事を判断するならば、「保護されるべき=弱い」ではないのだが、とかく弱い人は「弱いこと=保護されるべき」だという権利を主張する。

弱さというのは、ある種居心地の良いものである。

赤ん坊は弱い存在である。故に親から世話をされる。

弱いという事は助けてもらえる権利、誰かに引き上げてもらえる権利を有しているという勘違いが生まれる。

そして、弱い人はとかく自分が弱いことを知っていて、その弱さに居心地の良さを感じているので、「自分は弱い。よって、弱い自分は誰かにいじめられている。」という妄想に耽ってしまう。

誰かの何気ない一言に勝手に傷つき、勝手におびえ、勝手に怒りだす。

そして、「弱い私は傷つけられた。なので、傷つけ返す権利を有する。」とこれまた勝手に言葉の暴力を浴びせたり、裏で悪口を言ったり、相手の足を引っ張ったりする。

最弱は最強である。

最弱に最強は勝てない。最弱に勝てるのは無慈悲だけである。

最弱は最強だという事を、世の中の弱い人たちは熟知している。しかし、弱者として生きることが幸せでないということに気付ける人はなかなか少ない。

弱者の人生はとかく自分の感情や幸福の主導権を常に誰かに与えてしまっている。

故に、「誰かに何かをされた」、「誰かに何かを言われた」ということで本人の感情は振り回され、幸福度も変化する。

このように感情や幸福を周りからの影響によって変化させている弱者は、何かされたしてもらった言われた言ってくれたで右往左往し、そんな自分に疲弊する。

そして急激な自己嫌悪に陥ったかと思えば、突如牙をむいてくる。

自分が勝手に捉え、勝手に解釈したもので、勝手に不幸になって、勝手に悲しみ、勝手に怒る。

人生を主体的に生き、弱者に翻弄されないためには、他者基準のものの見方になってはならない。

弱者は強者が疎ましく、目障りで、羨ましく、相手にして欲しいのだ。

そのため、弱いものは弱いものとして強者にすり寄り、反応を窺う。望ましくない反応が返ってきたときは自らを被害者に仕立て上げ、大声で喚き、強者を悪者に仕立て上げる。

強者が弱者に勝てることは絶対にない。

大声の被害報告はかなりのネガティブを孕んでいる。ネガティブな情報は拡散されやすく、一度植え付けられたネガティブな情報は、例えそれが間違いだったとしてもなかなか拭い去ることは出来ない。

強者は弱者から身を守らねばならない。そのために出来る一番の方法は、「弱者を無視する」ことだ。

因みに、一般的な社会的弱者を言っているわけではない。このような言い訳みたいな文章をわざわざ書くのは嫌なのだが、誤解は弱者を無駄に集めてしまう。

弱者とは、自分の人生や感情を他者に渡してしまっている人を指す。

 

 

計画を立てすぎると計画に縛られて生きていくことになり自尊心が低下する

今日も徒然に文章を書く。

最近、日本語の響きみたいなものに感銘を受けつつある。これも年のせいか。

小生などと自分を称したくなる。これはただの中二病か。

フリーランスとして生活をする。あるいは、そのような生活スタイルを目指している身故、起床時間も就寝時間も、自由に設定できる身なのであるが、そのような生活を行っていると何となく「朝型生活」というものに憧れる。

実際に何度か「朝四時起き」というものにチャレンジしたことがあるが、これがなかなか身体の調子が良く、確かに物事の生産性が上がるような気がする。

今日のタスクを決めて、その通りに実践し、充実感に包まれながら夜を迎えるということも可能だ。

しかし、果たしてそれが本当に自分自身にとって良いものなのかは疑問が残る。

朝型生活を送っている人は”何となく”立派であるような気がする。

何故なら、我々現代人には「朝=辛いもの」というバイアスがかかっており、その辛い朝を有効活用している人は人生が有意義なものであるに違いないと思ってしまうからだ。

しかし、朝型人間からすれば逆に夜に起きていられるというのはすごいことという視点にもなりえないだろうか。

つまり、朝型だから凄いとか、夜型だからだらしがないとか、そういった一辺倒な価値観を持ちすぎてしまうのは自尊感情を逆に傷つけることになり危険なのではないだろうか。

私自身も(本当は自分を小生といいたい)、「朝四時に起きて今日の自分のタスクを意識して、それを完遂する」という目標を掲げていたこともあるが、はっきり言って無駄だと思う。

人間それぞれの適切なバイオリズムは違うし、誰かが言った「朝四時起きが最強」みたいな価値観は合う人が行えばいい。

逆にそこに無理を生じさせなければいけない人は、ストレスを自分にかけてしまうし、ストレスから逃げて失敗した自分を好きになれなくなってしまう可能性すらある。

それならいっそ、眠くなったら眠る自分を愛してあげればいいのではないだろうか。

そもそも、睡眠時間をたっぷりととらなければいけないと決めたのは誰なのだろう。動物において、昼行性のもののように夜にしっかりと眠るものもいれば、例えば猫みたいに昼だろうが夜だろうが好きな時に起きて、好きな時に寝る生き物もいる。

そうであるならば、別に人間も好きな時に起きて好きな時に寝る生活をしても良いのではないだろうか。

「規則正しい生活を送れば幸せになる」みたいな考え方は「規則正しい生活を送れていない人間は幸せではない」という価値観を生む危険性を孕んでいる。

無理をしない生き方を、一人でひっそりと送るのが一番気楽で楽しいものだと思う。

無計画こそが自尊心を守るのかもしれない。

意気揚々は時に破滅を招く

とても久々にブログなるものを執筆する。

巷ではブログはお金儲けになるようで、インターネット上には畏まったものが溢れているが、このブログはそういった類のものではない。

自分の人生を客観的に見つめ、時に自分自身で俯瞰するために今現状を記しているだけに過ぎない。

無論、この場所をお金を生む職場と捉えているわけではない。

日々、意識して過ごしていく中で、自分の気持ちを言語化しておくというのが物凄く大切であることに気付いてきた。

夢想家な私はつい、白昼夢を見てしまい、その白昼夢がついつい、自分にとってネガティブなものへ変容していくのだが、それの正体は実のところつまり、「メタ認知能力の不足」から起こることである。

自分の現状を客観的に見つめ、それを冷静に評価できないとき、人は自分の心の中でネガティブを想像していく。

ネガティブの中で自分の中の欲求不満や見えない不安を無理やりに具現化させ、怒りや悲しみに耽るのである。

私は夢想家だ。

夢想家は創造性に優れるというが、その反面今を生きれないという足かせを付けている。結局のところ人間の幸せは、今の連続を充実して過ごしているものにしか訪れない。

自分で作り上げた空想の世界で、楽しんだり、気持ちよくなったり、苦しんだり、怒ったり、悲しんだりしているうちは、自分の人生を生きているとはいえないのである。

自分で作りだした自分だけの世界で、人は生きることも死ぬことも、天国に昇ることも、地獄に堕ちることも出来る。

そしてそのどれもが、「空蝉の幸福」からはかけ離れたものなのだ。

人が幸せに生きる上で何よりも大切な能力は「客観的な視点を持つこと」なのではないかと常々感じるようになった。

「客観的な視点」はしばしば、誰かからの目線と誤解されることもあるが、そうではなく、自分を自分自身で見つめなおす能力である。

何か悲しいことや傷つくことがあった場合、人は主観的に物事を解釈してしまう。

「〇〇されたから腹が立った」「相手が〇〇だから悲しかった」という風に思うことは日常的によく起こりえる。

しかし、この主体的なものの見方は非常に危険で、これを逆説的に読んでみると「相手から〇〇されなければ幸せである」「相手が〇〇でなければ平和だ」という事になってしまう。これは幸せの決定権を自分ではない他の誰かに依存していることとなる。

客観的な視点は「〇〇されて腹が立った自分は、なぜ腹が立ったのだろうか」という疑問を抱かせる。この自分の感情に対して疑問を抱くことで、自分の感情の源を意識し、心を静めていけるのだ。

「幸福」という状況を、人はしばしば「自分の欲求が満たされたとき」や「自分の感情がポジティブな方向になったとき」と考え、それを追い求める。そして社会はそれを追い求めさせようとする。

しかし、「自分の欲求を満たすこと」や「自分の感情がポジティブであり続けること」を幸福と捉えている場合は幸福になれることは一生ない。

いや、刹那的に「満足感」を感じることはあるだろう。しかし、それは単純に満足をしただけに過ぎず、幸せであるとは言えない。

では、幸せとは何でどのような状態が幸せなのかというと、「今ここにある」ということを認識できることだ。

 

今ここに自分がいる。

 

今ここに自分がある。

 

それをポジティブでもなくネガティブでもなく俯瞰できたとき、本当の意味で自分の存在を自分で認められるのだ。

自分の存在を自分が認めた時、自分の存在を自分で証明出来る。

そこには波風も雑音もなく、静かな自分だけが残るのだ。

 

誰かは誰も幸せにしない。

静かなる自分の俯瞰が、幸福となる。